Seria Net
No.04


Volunteer

「ボランティア活動がしたい。」
有森裕子さんはインタビューに答えて言った。更にこの上ボランティアとは・・・ よく人は、市民ランナー、市民レースと口にする。シリアスランナーほどではないにしろ、毎日欠かさず走っているまじめな人がほとんどなのに、この言葉には誇れる響きが何もない。むしろ自分を卑下する意味で使ってしまうことのほうが多いかもしれない。
実際、参加したレースで感じるのは、特殊な人たちの特殊な集まりになってしまっていることだ。税金を使い、交通を規制して、地域社会の活性化のため、青少年の健全育成の旗の下に、はずかしいまでに盛大に行われてしまうため、無関心な人たちにはかえって迷惑なだけで終わってしまう。“走る楽しみ”をもっと沢山の人と共有し、しかも誇りあるものにできるものはないものか。あの職場からDパックを背負って走り去る時に感じる世間との壁を打ち破ることができないものだろうか。
今、レースのあり方を考え直す時が来ている。役人や企業、商工会などの思いつきの大会は、衰退するばかり。人事異動や、予算次第でふりまわされるのも面白くない。たとえ、青梅やホノルルを走ったところで、自己満足に過ぎないとなれば、走る人の和が、これ以上広がることは期待できないと思う。中味の薄い大会ほど、参加料の高いことも気になる。この物の豊かな時代に、記念Tシャツやタオルをもらってもしょうがない。もっと社会性のあるものにできないものか。
欧米では、“Fun Run”が頻繁に行われている。役員もなく、ゼッケンもなく、走ることに意義を感じている人が集まり走るだけだ。スポーツは本来、自分の責任のものとに自由に楽しむものだから、交通規制もさほどではない。そして日本と何より違うのは、参加料のほとんどがチャリティーに使われる。
だから、市民ランナーには誇りがある。車だって、街行く人だって、協力せずにはいられない。それがボランティア精神なのかもしれない。押し入れに眠っているTシャツが、形をかえて役に立っていれば、もっと走ることに社会性が生まれていたかもしれない。

市民大会に出場してみませんか!
久しぶりに10マイルのレースに出場した。練習不足で悲惨なものになるとわかっていたが、スタートラインに立つと緊張する。それも幼い頃に感じた、うきうきとしたときめきと似ていて心地よかった。40代、50代のランナーも目をきらきらさせている。それぞれの張りつめた心で号砲を待っているに違いない。
市民ランナーは一人で練習している。仕事の合間を縫って走っている。夜、車のヘッドライトのまぶしさに怒りを覚えつつ、薄暗い歩道の端を走っている。汗を流した後の冷えたビールだけを楽しみに。日々がストイックであるからレースが楽しい。入れ込み具合も派手なウエアーや新品のシューズからもわかる。何時も一人で耐えた時間を、仲間と気持ちよく共有出来るその瞬間を大切にしている。
学校を卒業すると、陸上をやめてしまう人も多いが、走りや記録だけに拘らず、さわやかに陸上を楽しんでいる人達がいることも知ってほしい。公式試合だけではなく、たまには市民大会に出場して、楽しい陸上を経験してみてはどうだろう。( 伊藤 )

プロに学べ
アトランタで活躍した選手たちがまた素晴しいパフォーマンスを見せてくれたTOTOスーパー陸上。誰もが一流選手でありながら、お互いに同じ舞台で競えることを喜び、感謝している。結果はどうあれ、オリンピックでピークを過ぎたはずなのに調子を維持し続けていることに敬意を抱いた。彼等はプロだから、と言うかもしれない。しかし、同じように身体を使って競技をしているすべての人がもっとプロのやっていることを見習うべきだ。
年間を通して競技のプランをたてる。ピークを持っていく試合をいくつかにしぼり、他の試合は調整のひとつにするときもある。トレーニング内容は体調をふまえてコーチと相談して決めていく。ちょっとした身体の変化も見逃さないようにしないと大きな故障につながる。自分の身体にあった方法を自分で探し出す。三段跳びのジョナサン・エドワーズは最新の方法やコーチの勧めるトレーニングをそのまま受け入れることは無く、やる気のないものや、身体に無理がかかるものはやらない。最小限の練習で最大限の効果をもたらすようにいつも自分の身体と相談しているという。ときには動かないでじっとしているのが最高の練習になるとも。100mのドノヴァン・ベイリーも、無理したりさぼったりしたら、それを取り戻すことはとても難しいし、故障の怖さも自分自身が一番良く知っているという。次々と試合に出ても身体が気持ちについていくわけがないから休みたいときは休む。プロにとってレースに出ないのは最も不安なことであろう。
それでも長い目で競技生活を考えてそれを選択していく。冷静な判断力だ。さらに二人に共通なのはプロに転向する前は優秀なサラリーマンだったことだ。仕事を持ちながらトレーニングを続け、競技力がアップしたのでプロの道へ入った。だから、引退してもやりたいことがたくさんあるから不安はない、という。人生のひとつの通り道として陸上競技をとらえていることが素晴しい。 駅伝シーズンを迎え、箱根だ、都道府県だ、と騒ぎ立てられるこの時期、日本の学生選手たちにも考えて欲しい。今しかできないから必死にやるんだ、という気持ちもわかる。しかし、走るのが好きならば、頑張りすぎて身も心もつぶれてしまう前に、どんな人生を送りたいのか、その中でこの競技がどういう位置にあり、どういう意味をもつのか、一度立ち止まって考えてみて欲しい。
そうすれば今何をすべきか見えてくるかもしれない。今はだめでも一年後には変わっているかもしれない。他の勉強に打ち込んでみてもいい。もっと自分というヤツがどんなヤツなのか見つめ直す時間を持って欲しい。可能性は無限なのだから。

FUN RUN
9月初旬、早春のオーストラリア。内陸にある小さな町カウラ、そこで開催された“FUN RUN”に参加しました。5マイルのロードレースです。広大で美しい風景のなか、延々と続く一本道を、春の陽光を浴びながらさわやかに走ろうという企画です。老若男女同時にスタート。しかし、どんなに小さな大会でも、必ずシリアス・ランナーはいるもので、シーエフの意地を賭けて地元のランナーと競い、優勝しました。
ゴールは障害者のための学校。実はこの大会は、同校への寄付を目的としたチャリティー・レースなのです。欧米ではこうした催しは珍しくありません。運営はすべてボランティアの方々が行います。参加費の一部はレース後のバーベキュー費用に充てられ、残りすべてが寄付されます。メダルも賞状もありませんが、町のお店が持ち寄った賞品がずらりと並び、1位・2位にかかわらずくじ引きで、ほとんどの参加者に賞品が渡されました。
日本でも時々、チャリティレースが行われますが、そう銘打ってしまっては少し窮屈な気がします。ボランティアを行うスマートなスタイルと、エンジョイすることのうまさは、大いに学ぶべきだと思います。レースが終わると、賞に関係ない者はさっさと帰ってしまうのでは一人のタイムトライアルと変わりありません。せっかく多勢の、しかも同じ趣味の人間が集まったのだから、バーベキューでもして互いに語り合うことができたら、どれほど楽しいでしょう。ぜひ、いつかこのような企画でプロ・アマを問わず、一日を満喫できたらと考えています。(大石)